「ACROS」2016年11月号
12/16
(文 上田瑞穂)ぎつねひらつり母方の祖父が六世野村万蔵なのですが、父は狂言とは無縁の世界に生きていたので、私自身は狂言師になることが運命づけられていたなんてことはなく、すべて自分の意志でこの道を選びました。7歳で初舞台を踏みましたが、それもお稽古事くらいの気持ちだったんですよね。小学5年生のときに祖父が亡くなり、師匠が伯父に変わりましたが、いとこたちがプロを目指すなか、私自身は特に将来を決めることもなく稽古を続けていました。進学時に東京藝術大学の能楽専攻を選んだときは、4年の間に一生の仕事にするかどうか決めようと思っていました。しかし実際には1〜2年生の時にすでに心が決まりましたね。芸大というのは特殊な環境や実力を持った学生が山ほどいるのですが、その中で自分は何ができるかを考えた。そうしたらやっぱり小さいころから古典芸能の世界に触れてきたことが、誰でもできる経験ではないことに気が付いたのです。この環境に感謝して経験を生かそうと決意し、卒業後は24時間体制で朝から晩まで師匠の側で稽古を重ねました。その後27歳で節目の舞台である「釣狐」を披き独立したのですが、そのころから拠点を東京以外に移すことを考えていました。古典芸能という文化の土壌は、江戸や上方では広く耕されていますが、地方ではまだまだなじみ薄いのが実情です。そんな地方都市へも文化の裾野を広げたいと思ったこと、そしてそうであれば「芸能」や「祭事」を大切にする気質が根付いている福岡が最適なのではないかと思い、思い切って福岡に移ってきたのです。この決断は、間違っていませんでしたね。福岡の人々は文化に対して寛容で、温かい。飽きやすいという難点もありますが(笑)、庶民の暮らしを映し出す狂言を、時に大声で笑いながら、実に楽しそうに観てくださいます。一生の仕事に狂言師を選んだこと、拠点を福岡にしたこと、人生で二つの大きな決断をしましたが、どちらも微塵も後悔していません。以前、福岡の県民文化祭で岡垣市の民話を元に創作狂言を作ったことがありますが、そうした地域に根差した創作も今後さらに増やしていきたいですね。無形文化財である狂言を後世に残すには、教えることも重要な役割の一つ。舞台に立つこと同様に、後進を育成することにも力を注ぎ続けています。文化は継承することが一番大切ですから。プロを育てたり、学校教育に組み込むことで、数百年前から愛されてきた古典芸能を、私のフィルターを通して次の世代へ伝えたいと思っています。2016.November12Nomura Manrokuプロフィール1966年東京生まれ。故・六世野村万蔵(芸術院会員・人間国宝)の孫。伯父の初世野村萬(芸術院会員・人間国宝)に師事。東京藝術大学音楽学部邦楽科能楽専攻卒業後、00年に二世野村万禄襲名。野村万蔵家別家を興す。現在は福岡を拠点に狂言の普及と発展に努めている。社団法人能楽協会・九州三役会所属。重要無形文化財総合指定保持者。平成22年度福岡県文化賞受賞。 狂言師#8野村 万禄
元のページ
../index.html#12