#15 陶芸家 山本 源太 (Yamamoto Genta) - アクロス福岡
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伝えたい文化の魅力

#15 陶芸家 山本 源太 (Yamamoto Genta)

陶芸家 山本 源太

昭和43年に星野村に移住してきたので、来年の秋で丸50年になりますね。昔から故郷はただあるものではなく、自分で作るものだと思ってきました。見ず知らずだったこの土地に住み始めて半世紀、まさに自分の故郷を作ることができた喜びを感じています。

私が生まれたのは昭和17年。物心ついたときには戦争は終わっていて、戦後の高度成長期とともに育ってきました。社会が目まぐるしく変わるなか、私は友人関係とか親子関係といった絆を深めることが不器用で、思春期は悩みが多かった。学校にも家にも居場所を見つけられず、生き辛かったのを覚えています。卒業したあとに、社会に出るのが怖くて。人から受ける自分の評価に納得できていなかったのかもしれません。その時に強く憧れたのが、芸術の持つ不変の力でした。自分の身体や心を通して作り上げたものを、損得や利害関係なく、ただシンプルに作品だけを見て価値を見出してもらえるのが芸術。文化や芸術は時代や土地柄を超えて、普遍的な評価をしてもらえる。漠然とその世界に憧れたものの、音楽や絵で褒められたこともなく、では一体自分は何ができるんだろうと自問自答の日々でした。

学校を卒業する春の直前の大晦日。盲腸で倒れたのですが病院がどこも開いておらず、唯一救急で受け入れてくれた産婦人科に担ぎ込まれました。手術が終わって目が覚めたのは、床の間に掛け軸と花卉(かき)だけがある畳の部屋。孤独な正月だな…と寂しく思いながら、その床の間を見つめていたときに、運命の出合いがありました。そこに花卉として飾られていた壷から、強烈な印象を受けたのです。悠然と佇むその姿から目が離せなくなり、もうそのあとは天井の木目も壁のシミも、すべて壷の文様に見えてきて(笑)。一種の啓示のようなものだったのでしょう。「器」というものに初めて興味を抱き、退院するや否や、働くことができる窯元探しに東奔西走しました。

長男でありながら家を出て、三重県などで修業をしながら、縁あってたどり着いたのがここ星野村。廃窯となって80年経っていた星野焼を、何の手がかりもない中から再興しようと思ったのは、ひとえにこの力強さと優美さが備わった姿に、魅了されたからです。思いがけず福岡県文化賞などもいただくことができ、やっとこの地を「故郷」と名乗れるようになったのかなとうれしく思いますね。自分の手で新しい故郷を作るという夢を叶えられたのは、星野焼とこの村に住む皆さんに出会えたおかげです。
(文・上田瑞穂)

プロフィール鳥取県生まれ。明治27年に廃窯となった古星野焼を再興し、80年を経た昭和44年に「星野焼 源太窯」を築窯した。詩人としても活躍し、2007年には福岡県詩人賞を受賞。著書にエッセイ集「土泥棒」、詩集「蛇苺」など。2008年福岡県文化賞受賞。