#6 若波酒蔵八代目杜氏・製造統括 今村 友香 (いまむら ゆか)
わが家は大正11年から続く日本酒蔵ですが、私には姉と弟がいるので、次女の自分が将来蔵に入るなんて想像したこともありませんでした。ただでさえ昔の蔵は女人禁制で、しかも子どものころは蔵に近づくのも怖かった。日本酒には光が良くないので蔵は薄暗いんですよね。家と同じ敷地内にあるのですが、ある線から先は足を踏み入れたこともありませんでした。
日本文化が好きだったので京都の大学に進み、在学中にアルバイトをしていた南座(劇場)にそのまま就職しようと考えていました。しかし父が体調を崩し、一年だけでいいから帰ってきて家業を手伝ってくれないかと言われたんです。京都に未練はありましたが、一年だけなら…と渋々戻り、事務仕事を手伝うことになりました。帰ってきたのは四月。冬の間の造りがひと段落して、蔵が眠りにつき始めた季節でした。仕事にやりがいも感じず、とにかく家業の犠牲になったような気分で、日々とげとげしい気持ちだったのを覚えています。そんな春と夏を過ごし秋口になったころ、蔵が動き始めました。全ての蔵人が集い、神主さんが蔵に入ってお清めをするのです。笛の音が響き、厳かな空気の中、今年の造りの安全を祈願する…この光景を見た瞬間、しびれました。「かっこいい!」って(笑)。まさに私の大好きな、日本の伝統文化そのものがそこにありました。何年も育ってきたこの家で、こんなことが毎年行われているなんて考えたこともなかった。この儀式とともに「米洗い」が始まり、その年の酒造りが始まるのです。初めて興味を持って、家業に向き合うことになりました。
と言ってもその年は朝夕決まった時間に樽内の温度を計る、というくらいの誰でもできる仕事を任されたにすぎません。それでも毎回計るたびに米の姿が変わっていくことに夢中になりました。雲のようなきれいな泡が出たり、ふわっとそれが消えたり。まさに生き物である米に魅了されていきました。手に入る限りの文献を読み、酒の知識をむさぼるように求めていましたね。当初の予定通りの一年が過ぎたころ、父の体調も好転したのでもう京都に帰っていいと言われたのですが、既に離れられなくなっていました。それからの数年間は、ありとあらゆる全ての講習会に参加し、全国で年に10人ほどが入所する東広島の酒類総合研究所にも入り、学べるだけ学びました。最初は講習会でも遠巻きに見られていたのですが、そのうちに「どうやら本気らしい」と各蔵の職人さんたちも優しく教えてくれるようになり、たくさんの方々のおかげで酒造りの面白さと難しさを会得していった気がします。
ある時国税局の方から、「日本酒では九州初の女性杜氏ですね」と言われて初めて、自分がそうであることに気付きました。「女性初」という冠を持つことで恩恵を受けることも多く、また、弟が帰ってきて蔵元となってくれたことにより、姉弟で酒蔵をしていると話題になることもあります。それらはとてもありがたいことなのですが、酒造りは決して一人ではできないもの。私たち姉弟だけが光を浴びるのではなく、蔵を支える全ての人たちとその恩恵を享受したいという想いもあり、私の次の杜氏は血縁者以外から招き入れました。研究所時代の同期生なのですが、研究熱心で本当に尊敬できる存在。私は八代目杜氏兼製造統括として蔵のあれこれに携わり、これからは九代目杜氏と、蔵元である弟との三本の矢で、たくさんの方に愛されるお酒を造っていきたいですね。
日本文化が好きだったので京都の大学に進み、在学中にアルバイトをしていた南座(劇場)にそのまま就職しようと考えていました。しかし父が体調を崩し、一年だけでいいから帰ってきて家業を手伝ってくれないかと言われたんです。京都に未練はありましたが、一年だけなら…と渋々戻り、事務仕事を手伝うことになりました。帰ってきたのは四月。冬の間の造りがひと段落して、蔵が眠りにつき始めた季節でした。仕事にやりがいも感じず、とにかく家業の犠牲になったような気分で、日々とげとげしい気持ちだったのを覚えています。そんな春と夏を過ごし秋口になったころ、蔵が動き始めました。全ての蔵人が集い、神主さんが蔵に入ってお清めをするのです。笛の音が響き、厳かな空気の中、今年の造りの安全を祈願する…この光景を見た瞬間、しびれました。「かっこいい!」って(笑)。まさに私の大好きな、日本の伝統文化そのものがそこにありました。何年も育ってきたこの家で、こんなことが毎年行われているなんて考えたこともなかった。この儀式とともに「米洗い」が始まり、その年の酒造りが始まるのです。初めて興味を持って、家業に向き合うことになりました。
と言ってもその年は朝夕決まった時間に樽内の温度を計る、というくらいの誰でもできる仕事を任されたにすぎません。それでも毎回計るたびに米の姿が変わっていくことに夢中になりました。雲のようなきれいな泡が出たり、ふわっとそれが消えたり。まさに生き物である米に魅了されていきました。手に入る限りの文献を読み、酒の知識をむさぼるように求めていましたね。当初の予定通りの一年が過ぎたころ、父の体調も好転したのでもう京都に帰っていいと言われたのですが、既に離れられなくなっていました。それからの数年間は、ありとあらゆる全ての講習会に参加し、全国で年に10人ほどが入所する東広島の酒類総合研究所にも入り、学べるだけ学びました。最初は講習会でも遠巻きに見られていたのですが、そのうちに「どうやら本気らしい」と各蔵の職人さんたちも優しく教えてくれるようになり、たくさんの方々のおかげで酒造りの面白さと難しさを会得していった気がします。
ある時国税局の方から、「日本酒では九州初の女性杜氏ですね」と言われて初めて、自分がそうであることに気付きました。「女性初」という冠を持つことで恩恵を受けることも多く、また、弟が帰ってきて蔵元となってくれたことにより、姉弟で酒蔵をしていると話題になることもあります。それらはとてもありがたいことなのですが、酒造りは決して一人ではできないもの。私たち姉弟だけが光を浴びるのではなく、蔵を支える全ての人たちとその恩恵を享受したいという想いもあり、私の次の杜氏は血縁者以外から招き入れました。研究所時代の同期生なのですが、研究熱心で本当に尊敬できる存在。私は八代目杜氏兼製造統括として蔵のあれこれに携わり、これからは九代目杜氏と、蔵元である弟との三本の矢で、たくさんの方に愛されるお酒を造っていきたいですね。
(文・上田瑞穂)
プロフィール
福岡県大川市生まれ。京都の大学を卒業後2001年に家業である若波酒造に入社。2005年酒類総合研究所に入所、2006年若波酒造8代目杜氏に就任。2008年には福岡国税局酒類鑑評会にて優等賞を受賞。その後も全国酒類鑑評会、福岡県酒類鑑評会などで受賞多数。