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#13 許斐本家十四代代表取締役 許斐 健一 (このみ けんいち)

許斐本家十四代代表取締役 許斐 健一 (このみ けんいち)

私は許斐家としては十四代ですが、茶問屋としては七代目になります。今から三百年ほど前は、「矢部屋」と号して山産物の商いをしておりました。江戸時代の中期ですね。それが幕末慶応元年、八代目である許斐寅五郎の時代に茶業の将来性を予見して、現在の地に専門となる茶問屋を興しました。その後明治期には再び本家を一つにまとめ、九代目の許斐久吉がこの地のお茶を、「八女茶」と初めて名付けました。そのあたりのお話からしましょうか。
幕末から明治期にかけて、日本茶は輸出商材として欧米に好まれていた時代があります。調べたところ、この地の茶を米国に紹介したのはあのトーマス・グラバーです。長崎に茶再製工場を造り、日本茶の海外輸出を成功させました。このときに、当時は「筑後茶」と呼ばれていた八女地方一帯のお茶を大量に買い付けたため、当地での生産量が一気に伸びたそうです。しかしその後、人気にあやかって日本各地の他地域のお茶も大量に輸出されるようになり、そのうちに悪徳業者が出てきて製品管理を怠ったり、粗悪品を紛れさせたりした結果、明治半ばくらいから一気に輸出量は下降線をたどり始めました。その頃、輸出に頼ることに危機感を抱き、製法を「釜炒り」から「蒸し」に変えて、品質を重視した改良に取り組んだのが当家の九代目です。八女の気象条件や土地を徹底的に検証し、この地ならではの、それまでとは全く異なる品質のお茶を生み出しました。そして、名称まで変えようと「八女茶」と名付けたのです。
私は当家が「八女茶」の名付け親であることや代々続く茶商であること、そこに至る経緯や上記のグラバーとの関係など何も知らずに育ちました。お恥ずかしい話ですが、幼少期はお茶にも家業にも興味がなく、早くに祖父も亡くなっておりましたので、当家の歴史の話を聞いたことはなく、おまけに八女福島地区は400年以上続く商家町なので、周りも古い家だらけでこの環境が特別ではありませんでした(笑)。
ただ小さいころから古いものに興味はあったので、家に眠る当時の文献や新聞記事にあたり、何の為にこの地にいるのか、なぜこの商売をしているのか、大人になって改めて自分の住む地域の歴史や当家のことを見直すようになりました。調べ進めるうちに曾祖父が首長にあてた文書や代々の当主たちがどんな想いで茶業を営んでいたのかを想像する機会に恵まれ、自分の存在する意義を考えるようになりました。この古い建物も、この町の歴史も、家業の成り立ちについても、意義が在り次世代に伝えていくべき使命が自分にはあるのではないかと感じるようになったのです。
今は地域のこれからを考えるためにも、この土地ならではの強みや特徴を歴史から紐解こうと学んでいる最中です。当家のみならず、地域が一体となって後世に語り継ぐべき文化を守り続けていけたらと思いますね。

(文・上田瑞穂)

プロフィール 1975年、福岡県八女市生まれ。創業三百余年の老舗茶舗「矢部屋許斐本家」の14代目として、平成26年に本家を継承。同年「八女茶 許斐久吉六代目シリーズ」が第16回福岡県デザインアワードにて奨励賞を受賞。翌年にはミラノ国際博覧会に「焙炉式八女茶」を出品するなど、国内外で活躍している。