#17 筒井時正玩具花火製造所三代目 筒井 良太(つつい りょうた)
祖父・時正が創業し、私で3代目。2代目までは玩具花火を製造していました。打ち上げなどの「煙火(はなび)」に対して、子どもたちが手にもって遊ぶ花火を「玩具花火」と呼びます。
学卒後には一旦家業とは別の会社に就職したのですが、3年を経て実家に戻ってきました。
当時は中国産の玩具花火が市場を席巻しはじめ、業界は価格競争に飲み込まれ国内メーカーの衰退が叫ばれ始めていました。そんなときに八女で日本最後の線香花火専門の製造所を営んでいた叔父から、「今のうちに技術を学んでおけ」と言われ、実家を出て3年間修業に出たんです。日本の伝統文化である線香花火が消滅の危機にあるという実感は、まだ抱いていませんでした。その会社では、製造するうえで一番大切な配合表が盗まれていたりして、基本的な技術は学べましたが、再興するに十分な知識を得られないまま、3年後に帰還。しかし、「線香花火を受け継がねば」という使命感だけは強く、来る日も来る日も研究していましたね。火薬、藁、ニカワ…線香花火の材料は、基本的に自然界のものばかり。気候や温湿度などちょっとしたものにも影響を受けるんです。それまでは中国製品の価格に近づけることに必死だったのですが、そのころから視点が変わりました。どうしたら他と違うものが作れるのか、何をしたらもっと美しくなるのか。夜な夜な研究しては、日が昇るころ帰宅して、家の炊事場で試作品に火をつけてみる。そんなことを繰り返していたある日、たまたま妻が炊事場にいるときに試作品に点火したんです。そのとき、妻が驚いてこう言いました。「ちょっとこれ、何?今までこんな線香花火見たことない!これを安価な商品と一緒に並べて売る気?」その一言で、目が覚めました。ああもう、価格勝負で十把一絡げに売られる製品を作り続けるのは嫌だと。誰も見たことのないような、オリジナルの作品を作りたい、と。せっかく日本で最後に残った線香花火製造のタスキを受け継いだのであれば、私にしか作れない、この土地でしか作れない唯一無二のものに挑戦しようと思いました。そう決意してさまざまなチャレンジを始めたのです。家族経営だった家業の足元をきちんと見ようと、経営革新計画の承認を目指したり、本格的なデザイン講座に夫婦で参加したり。多くの人と出会うこともまた、「新しい花火」には必要なことだと実感しました。その一方で質そのものの向上にも全力で挑みました。「ここでしか作れないもの」のために、八女の手すき和紙や九州産の櫨(はぜ)だけを使った蝋燭(ろうそく)、大川の木工職人が作った山桜の蝋燭立てなど地元と天然にこだわった素材で究極の線香花火セットを作ってみたり。私が叔父の事業を引き継いだあとに、国内で2軒新興の線香花火会社が生まれたのですが、その2社ともが作っていないのが藁を使って作る「スボ手牡丹」という関西を中心に広がった線香花火。400年の歴史を持つものを、途絶えさせてはいけないと私たちが作り続けていますが、コンバインで稲刈りをするようになった昨今、花火の芯になるくらいの長さを持つ藁が手に入りにくくなったんです。それなら稲から育ててしまおう、と田んぼを買って「線香花火のための米」を作り始めています。
米を育てたり、ワークショップをしたり、これまでの花火製造所がしないようなことばかり始めていますが、それもこれも、先代、先々代が築き上げてくれた土台があるからこそ、3代目として私がチャレンジできるもの。父や祖父には感謝しかありません。後継者不足に悩む原料製造者や地域の人々とも協力して、この街の、この国の文化や産業を活性化するお手伝いが少しでもできればと思います。
学卒後には一旦家業とは別の会社に就職したのですが、3年を経て実家に戻ってきました。
当時は中国産の玩具花火が市場を席巻しはじめ、業界は価格競争に飲み込まれ国内メーカーの衰退が叫ばれ始めていました。そんなときに八女で日本最後の線香花火専門の製造所を営んでいた叔父から、「今のうちに技術を学んでおけ」と言われ、実家を出て3年間修業に出たんです。日本の伝統文化である線香花火が消滅の危機にあるという実感は、まだ抱いていませんでした。その会社では、製造するうえで一番大切な配合表が盗まれていたりして、基本的な技術は学べましたが、再興するに十分な知識を得られないまま、3年後に帰還。しかし、「線香花火を受け継がねば」という使命感だけは強く、来る日も来る日も研究していましたね。火薬、藁、ニカワ…線香花火の材料は、基本的に自然界のものばかり。気候や温湿度などちょっとしたものにも影響を受けるんです。それまでは中国製品の価格に近づけることに必死だったのですが、そのころから視点が変わりました。どうしたら他と違うものが作れるのか、何をしたらもっと美しくなるのか。夜な夜な研究しては、日が昇るころ帰宅して、家の炊事場で試作品に火をつけてみる。そんなことを繰り返していたある日、たまたま妻が炊事場にいるときに試作品に点火したんです。そのとき、妻が驚いてこう言いました。「ちょっとこれ、何?今までこんな線香花火見たことない!これを安価な商品と一緒に並べて売る気?」その一言で、目が覚めました。ああもう、価格勝負で十把一絡げに売られる製品を作り続けるのは嫌だと。誰も見たことのないような、オリジナルの作品を作りたい、と。せっかく日本で最後に残った線香花火製造のタスキを受け継いだのであれば、私にしか作れない、この土地でしか作れない唯一無二のものに挑戦しようと思いました。そう決意してさまざまなチャレンジを始めたのです。家族経営だった家業の足元をきちんと見ようと、経営革新計画の承認を目指したり、本格的なデザイン講座に夫婦で参加したり。多くの人と出会うこともまた、「新しい花火」には必要なことだと実感しました。その一方で質そのものの向上にも全力で挑みました。「ここでしか作れないもの」のために、八女の手すき和紙や九州産の櫨(はぜ)だけを使った蝋燭(ろうそく)、大川の木工職人が作った山桜の蝋燭立てなど地元と天然にこだわった素材で究極の線香花火セットを作ってみたり。私が叔父の事業を引き継いだあとに、国内で2軒新興の線香花火会社が生まれたのですが、その2社ともが作っていないのが藁を使って作る「スボ手牡丹」という関西を中心に広がった線香花火。400年の歴史を持つものを、途絶えさせてはいけないと私たちが作り続けていますが、コンバインで稲刈りをするようになった昨今、花火の芯になるくらいの長さを持つ藁が手に入りにくくなったんです。それなら稲から育ててしまおう、と田んぼを買って「線香花火のための米」を作り始めています。
米を育てたり、ワークショップをしたり、これまでの花火製造所がしないようなことばかり始めていますが、それもこれも、先代、先々代が築き上げてくれた土台があるからこそ、3代目として私がチャレンジできるもの。父や祖父には感謝しかありません。後継者不足に悩む原料製造者や地域の人々とも協力して、この街の、この国の文化や産業を活性化するお手伝いが少しでもできればと思います。
(文・上田瑞穂)
プロフィール
1973年福岡県生まれ。日本で唯一、東日本と西日本でそれぞれ受け継がれている2種類の線香花火を製造。数々のオリジナリティあふれる花火は、「BEMAS」をはじめ国内屈指のセレクトショップにも選ばれている。自社HP内に「玩具花火研究所」という別サイトを立ち上げ、花火を製作するときに必要な技術や素材、背景などを紹介し、文化の継承に努めている。