明治日本の産業革命遺産
九州・山口と関連地域 <4>
(三池炭鉱・三池港①)
壮絶な争奪戦が繰り広げられた国内最大の炭鉱
新大牟田駅の前で、街を見守るかのように立つ1体の銅像。"三池炭鉱育ての親"と呼ばれた偉人、團 琢磨の銅像です。彼が手腕を振るった「三池炭鉱」は明治〜大正時代、福岡県大牟田市と隣接する熊本県荒尾市で国内一の出炭量を誇りました。
もともと「三池炭鉱」は、明治政府の優良事業として官営が続けられ、石炭は上海や香港に輸出され、外貨獲得の手段となっていました。民間への払い下げが決定したのは1888(明治21)年のことで、最低入札額は400万円でした。ほぼ同時期に三菱に払い下げられた長崎造船所が9万円だったことに鑑みれば、いかに破格だったかがわかります。
この頃、三池の石炭を重要輸出品目にして海外進出の土台を作っていた旧三井物産にとっては、なんとしても「三池炭鉱」を落札する必要がありました。社長の益田孝は、説得の末に三井銀行から100万円の融資を取り付けることに成功。三菱に2,300円の僅差で競り勝ちますが、455万5,000円という途方もない落札金額でした。
團 琢磨の尽力によって三井の中核事業に
三池炭鉱の経営を担った三井鉱山はその後、旧三井物産、三井銀行とともに三井直営の三大企業のひとつにまで成長。その立役者となったのが、前出の團 琢磨です。1871(明治4)年、岩倉使節団に同行してマサチューセッツ工科大学で鉱山学を学んだ彼は、1884(明治17)年に工部省に入省し三池鉱山局に勤務。三池炭鉱が三井に払い下げられた1889(明治22)年に失職した彼は、福岡県庁に内定していたが、益田孝に請われて、三池炭礦社の事務長に迎えられます。そして大型排水ポンプの設置や三池港の築港など、世界の最新技術の導入により三池炭鉱の近代化に尽力。こうして「三池炭鉱」は、旧三井財閥発展の中核事業になると同時に、明治日本の近代工業化を支えていったのです。
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次回からは、各関連施設についてみていきます。
- 三池炭鉱・三池港に関する問い合わせ先 電話:(大牟田市企画総務部 世界遺産登録・文化財室)
▲2 團 琢磨(1858〜1932年)。福岡藩生まれ。
血盟団の凶弾に倒れるまでは、日本工業倶楽部初代理事長や日本経済連盟会初代会長を務めた。
▲3 團 琢磨が100年後を見据えて築港した三池港。
今も重要港湾として機能している。