#5 ポーランド継承戦争 ♪バッハ/ロ短調ミサ曲 - アクロス福岡
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歴史を彩った名曲たち

#5 ポーランド継承戦争 ♪バッハ/ロ短調ミサ曲

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ライプツィヒの聖トマス教会でカントール(教会の楽長)に就任したバッハは1730年代を過ぎるころから、聖トマス教会付属学校だけではなく市参事会、さらにジャーナリズムの批判にさらされるようになる。その批判の急先鋒が音楽評論家で作曲家のシャイベで、その批判の骨子はバッハの音楽はもはや時代遅れであるというものであった。この批判のさなかにポーランドで王位継承をめぐる戦争が起こる。カトリック国のポーランドは、オーストリアやロシアなどの列強の政治力学によってプロテスタントのザクセン選帝侯国が統治していた。しかし、ザクセン選帝侯が1733年2月1日に没したことからポーランドの王位継承の戦争が勃発したのである。
市参事会より罷免要求が出されたバッハは1733年7月27日、自身の地位保全のために急遽、「ロ短調ミサ曲」の「キリエ」と「グロリア」と嘆願書をしたためてドレスデン宮廷を訪問する。プロテスタントのバッハがカトリックのミサ曲を作曲したのは、ドレスデン宮廷が上に述べた政治的な理由でカトリックに改宗していたからである。しかし訪問時は折しも継承戦争のさなかであった。この戦争ではポーランドは以前のポーランド王スタニスワフ・レシチニスキを擁立し、レシチニスキの娘マリーアを妃とするルイ15世はそれを支持した。ちなみにマリーアのクラヴサン(チェンバロ)の師がフランソワ・クープランである。
継承戦争はオーストリアとロシア側が勝利し、ザクセンのフリードリヒ・アウグスト2世がポーランド王アウスグト3世として即位して終結する。バッハの嘆願書は受理され、彼には1736年11月、「ポーランド王兼ザクセン選帝侯作曲家」いう称号を与えられる。バッハは晩年にミサ曲の「クレド」以下の作曲に専念し、彼が最後に取り組んだ作品となった。

アウグスト3世
アウグスト3世
西原稔 山形県生まれ。東京藝術大学大学院博士課程満期修了。現在、桐朋学園大学音楽学部教授。18、19世紀を主対象に音楽社会史や音楽思想史を専攻。「音楽家の社会史」、「シューマン 全ピアノ作品の研究 上・下」(ミュージック・ペン・クラブ賞受賞)、「クラシック 名曲を生んだ恋物語」、「クラシックでわかる世界史」などの著書などがある。