#6 啓蒙主義 ♪モーツァルト/雀のミサ曲 K・220 - アクロス福岡
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歴史を彩った名曲たち

#6 啓蒙主義 ♪モーツァルト/雀のミサ曲 K・220

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モーツァルト(1756-1791)が生まれたのは、大司教が国を治めたザルツブルク大司教国である。塩を産出することから豊かな財力に恵まれ、アルプスの北でいち早くオペラを上演したのはここザルツブルクである。
1781年にウィーンに移り住むまで、ザルツブルク時代のモーツァルトにとくに求められたのは教会音楽の作曲であった。彼は少年時代から数多くのミサ曲や教会の典礼音楽を作曲しており、1768年に作曲された「孤児院のミサ」(K・139)は12歳の時の作品とは思えない高い完成度を持っている。
1771年、シュラッテンバッハ大司教が没する。彼は、モーツァルトの父レオポルトに西方への大旅行に伴う休職を許可するなど、モーツァルト家には理解があった。しかし、その後任として1772年3月14日、ヒエロミュムス・コロレードが大司教に就任する。彼は厳格な啓蒙主義者で、簡素なミサを求め、ミサ曲と教会ソナタ、書簡朗読をすべて含めて45分以内に収めることを指示した。その結果、ミサ曲の創作も大きな変更を余儀なくされ、これまでの壮大で華麗な音楽に代わり、小規模で簡素な音楽が求められた。
「ミサ・ブレヴィス」(K・220)もそうした作品で、《雀ミサ》の愛称で呼ばれる。このミサ曲は自筆譜が失われているために正確な作曲年代は明らかではないが、1775年から翌年にかけて作曲されたものとみられている。この作品が《雀ミサ》と呼ばれているのは、「サンクトゥス」(※1)でヴァイオリンが小鳥のさえずりに似た動機を奏することに由来する。大司教の方針に基づいてオーケストラの規模は小さく、弦楽器ではヴィオラを用いず、管楽器はトランペットのみで木管楽器は用いられない。
モーツァルトは、大司教のもとでのザルツブルクのこうした閉塞的な環境に耐えることができず、やがて大司教と決裂し新しい活動を目指してウィーンに移ることになる。
※1 ミサ中の祈り

シュラッテンバッハ大司教
シュラッテンバッハ大司教
西原稔 山形県生まれ。東京藝術大学大学院博士課程満期修了。現在、桐朋学園大学音楽学部教授。18、19世紀を主対象に音楽社会史や音楽思想史を専攻。「音楽家の社会史」、「シューマン 全ピアノ作品の研究 上・下」(ミュージック・ペン・クラブ賞受賞)、「クラシック 名曲を生んだ恋物語」、「クラシックでわかる世界史」などの著書などがある。