#13 反宗教改革 ♪パレストリーナ/教皇マルチェルスのミサ曲
パレストリーナのミサ曲の透明な響きの背景には16世紀中ごろから始まった宗教改革に対するカトリック側の反宗教改革の動きがあった。
カトリックに反抗する一連の宗教改革に対して、カトリックはトレント公会議を開催してローマ・カトリックの勢力回復に乗りだした。会議は1545年から63年にかけて開催され、同年に決議書が採択された。カトリックの宗教規律の綱紀粛正とともに、カトリックの信仰の真正さが確認され、ミサ聖祭中における音楽についても定められた。この当時のイタリアではぜいたくなマドリガルが流行し、世俗的な音楽が世に満ちていた。それに対してこの公会議では神の住まう家は真に祈りの場とすべきであるとの趣旨から、「歌やオルガン演奏による卑猥(ひわい)で不純な要素の混じる音楽」は、教会から放逐されるべきことが定められた。トレント公会議の決議に基づいて、カトリックはプロテスタント地域の失地回復や新たな信仰地域の拡大につとめる。たとえばイエズス会のフランシスコ・ザビエルが日本へ布教に来るのはその一例である。
このトレントの公会議の方針を具現した作品がパレストリーナの《教皇マルチェルスのミサ曲》であるといわれている。このミサ曲の成立に関しては伝説に包まれた部分が多いが、パレストリーナという作曲家はこの作品によって、反宗教改革の象徴として特別な意味をもつようになる。ルネサンス合唱音楽の精華ともいうべきこの作品はカトリックの信仰の確かさの象徴として高い評価をえることになった。この公会議後、多くの作曲家は、「トレント公会議の指示により」や「トレント公会議の形式に従い」と表示して作品を書き、反宗教改革の路線への忠誠を表明する。
その後、ヴェネツィアでは壮麗な複合唱様式の作品が生みだされ、フィレンツェではオペラが誕生するなど、時代は大きく変化していく。しかしパレストリーナの透明な響きは、カトリックの教会音楽を主導するだけではなく、今日に至るまで時代を超えた永遠の調べという理想を実現することになる。
カトリックに反抗する一連の宗教改革に対して、カトリックはトレント公会議を開催してローマ・カトリックの勢力回復に乗りだした。会議は1545年から63年にかけて開催され、同年に決議書が採択された。カトリックの宗教規律の綱紀粛正とともに、カトリックの信仰の真正さが確認され、ミサ聖祭中における音楽についても定められた。この当時のイタリアではぜいたくなマドリガルが流行し、世俗的な音楽が世に満ちていた。それに対してこの公会議では神の住まう家は真に祈りの場とすべきであるとの趣旨から、「歌やオルガン演奏による卑猥(ひわい)で不純な要素の混じる音楽」は、教会から放逐されるべきことが定められた。トレント公会議の決議に基づいて、カトリックはプロテスタント地域の失地回復や新たな信仰地域の拡大につとめる。たとえばイエズス会のフランシスコ・ザビエルが日本へ布教に来るのはその一例である。
このトレントの公会議の方針を具現した作品がパレストリーナの《教皇マルチェルスのミサ曲》であるといわれている。このミサ曲の成立に関しては伝説に包まれた部分が多いが、パレストリーナという作曲家はこの作品によって、反宗教改革の象徴として特別な意味をもつようになる。ルネサンス合唱音楽の精華ともいうべきこの作品はカトリックの信仰の確かさの象徴として高い評価をえることになった。この公会議後、多くの作曲家は、「トレント公会議の指示により」や「トレント公会議の形式に従い」と表示して作品を書き、反宗教改革の路線への忠誠を表明する。
その後、ヴェネツィアでは壮麗な複合唱様式の作品が生みだされ、フィレンツェではオペラが誕生するなど、時代は大きく変化していく。しかしパレストリーナの透明な響きは、カトリックの教会音楽を主導するだけではなく、今日に至るまで時代を超えた永遠の調べという理想を実現することになる。
西原稔
山形県生まれ。東京藝術大学大学院博士課程満期修了。現在、桐朋学園大学音楽学部教授。18、19世紀を主対象に音楽社会史や音楽思想史を専攻。「音楽家の社会史」、「シューマン 全ピアノ作品の研究 上・下」(ミュージック・ペン・クラブ賞受賞)、「クラシック 名曲を生んだ恋物語」、「クラシックでわかる世界史」などの著書などがある。