#15 カルバン派 ♪J・S・バッハ/ブランデンブルク協奏曲
J・S・バッハ(以下、バッハ)はプロテスタント・ルター派の正統派の信仰を堅持していたが、一方ではカルヴァン派がヨーロッパ全土で大きな広がりを見せていた。バッハが1717年から23年まで宮廷楽長をつとめたケーテン宮廷はカルヴァン派であった。バッハが名作「ブランデンブルク協奏曲」を作曲したのはこのケーテン時代である。
バッハのこの6曲の協奏曲集の作曲と献呈は17世紀初期にさかのぼる政治史が背景になっている。1613年、ブランデンブルク辺境伯ヨーハン・ジーギスムントはカルヴァン派に改宗し、自身の宮廷礼拝堂もカルヴァン派の流儀でおこなうことを決定した。それは、同宮廷がカルヴァン派を信仰する、商工業の盛んなオランダに近いクレーヴェに所領をもっていたことも関連しており、王の改宗は政治的な意図にもとづいていた。その後、スペイン継承戦争ののち、「兵隊王」の異名をもつフリードリヒ・ヴィルヘルム1世は、軍隊の充実のために軍事費以外の宮廷のその他の予算を極端に削減するだけではなく、前王フリードリヒ1世の愛好したフランス趣味を一掃し、宮廷楽団を解散した。
ケーテン領主のレーオポルトは1707年から10年にかけてベルリンの騎士学校に学び、その折にフリードリヒ大王の叔父にあたるブランデンブルク辺境伯クリスティアン・ルートヴィヒと親交を結んだ。彼は宮廷楽団を解雇された優秀な楽団員をすぐさまケーテン宮廷へ招き、その後バッハを宮廷楽長に迎えたのである。ルター派の教会とは異なり、礼拝での壮麗なカンタータの作曲と演奏は求められず、1724年までのケーテン時代ではバッハはもっぱら器楽作品の創作に専念する。
バッハは《ブランデンブルク協奏曲》に丁重な献呈の辞を付して1721年に同辺境伯に献呈した。この献呈の辞によると、バッハは辺境伯の前で御前演奏をおこない、同伯爵は作品を所望されたとされている。この作品の献呈には小国ケーテン内でのカルヴァン派とルター派との激しい宗教対立も影響しており、バッハはブランデンブルク辺境伯の宮廷に新たな職場を求めていた可能性も指摘されている。
バッハのこの6曲の協奏曲集の作曲と献呈は17世紀初期にさかのぼる政治史が背景になっている。1613年、ブランデンブルク辺境伯ヨーハン・ジーギスムントはカルヴァン派に改宗し、自身の宮廷礼拝堂もカルヴァン派の流儀でおこなうことを決定した。それは、同宮廷がカルヴァン派を信仰する、商工業の盛んなオランダに近いクレーヴェに所領をもっていたことも関連しており、王の改宗は政治的な意図にもとづいていた。その後、スペイン継承戦争ののち、「兵隊王」の異名をもつフリードリヒ・ヴィルヘルム1世は、軍隊の充実のために軍事費以外の宮廷のその他の予算を極端に削減するだけではなく、前王フリードリヒ1世の愛好したフランス趣味を一掃し、宮廷楽団を解散した。
ケーテン領主のレーオポルトは1707年から10年にかけてベルリンの騎士学校に学び、その折にフリードリヒ大王の叔父にあたるブランデンブルク辺境伯クリスティアン・ルートヴィヒと親交を結んだ。彼は宮廷楽団を解雇された優秀な楽団員をすぐさまケーテン宮廷へ招き、その後バッハを宮廷楽長に迎えたのである。ルター派の教会とは異なり、礼拝での壮麗なカンタータの作曲と演奏は求められず、1724年までのケーテン時代ではバッハはもっぱら器楽作品の創作に専念する。
バッハは《ブランデンブルク協奏曲》に丁重な献呈の辞を付して1721年に同辺境伯に献呈した。この献呈の辞によると、バッハは辺境伯の前で御前演奏をおこない、同伯爵は作品を所望されたとされている。この作品の献呈には小国ケーテン内でのカルヴァン派とルター派との激しい宗教対立も影響しており、バッハはブランデンブルク辺境伯の宮廷に新たな職場を求めていた可能性も指摘されている。
西原稔
山形県生まれ。東京藝術大学大学院博士課程満期修了。現在、桐朋学園大学音楽学部教授。18、19世紀を主対象に音楽社会史や音楽思想史を専攻。「音楽家の社会史」、「シューマン 全ピアノ作品の研究 上・下」(ミュージック・ペン・クラブ賞受賞)、「クラシック 名曲を生んだ恋物語」、「クラシックでわかる世界史」などの著書などがある。