#16 ポーランド継承戦争 ♪フランソワ・クープラン/王妃マリ
ルイ14世から15世の時代はフランスのクラヴサン(チェンバロ)音楽が美しく花開いた時代であった。この時代の栄華はその後のフランスの歴史に強い影響を及ぼし、第1次世界大戦の時期にラヴェルが「クープランの墓」を作曲したのはこの時代の栄光を意図している。この時代のもっとも重要な作曲家がフランソワ・クープラン(1668-1733)である。
ちょうどバッハの時代に活躍したクープランは宮廷のさまざまな人間模様を数多くのクラヴサンのための「組曲」で表現した。その作品には人物を特定できるものも少なくなく、とくに宮廷の女性を生き生きと描いている。その一つが「王妃マリ」で、この作品にはこの時代の国際戦争が色濃く反映されている。
マリはポーランド国王スタニスワフ・レシチニスキの娘マリーア・レシチニスカで、彼女はルイ15世の妃となった。スタニスワフはスウェーデンのカール12世の後押しを受けて国王に就任するが、1709年のポルタヴァの戦いでスウェーデンは敗北し、スタニスワフは亡命を余儀なくされる。ロシアとオーストリアはポーランド王にザクセンのフリードリヒ・アウグスト1世(ポーランド王としてはアウグスト2世)を即位させたが、彼が1733年に亡くなると、こんどはフランスが、ロシアやオーストリアが推すザクセンのフリードリヒ・アウグスト2世に対抗して、亡命中のスタニスワフを国王に擁立する。そこでポーランド継承戦争が起こる。この戦争でフランスとスタニスワフは敗北し、スタニスワフはフランスに亡命する。
マリがルイ15世の妃となったのは1725年、スタニスワフが亡命中のことである。ルイ15世はスペイン王女のマリーア・アンナ・ビクトリアと婚約をしていたが、これを破棄してマリと結婚する。このマリのクラヴサン教師をつとめたのがクープランである。クープランの第20組曲の第1曲を飾るのが「王妃マリ」で、「ポーランドの歌」がそれに続くのは、マリがポーランド人であったことによる。このポーランド継承戦争の時期にバッハはフランスの侵略軍に立ち向かうザクセン王を讃えたカンタータを作曲している。
ちょうどバッハの時代に活躍したクープランは宮廷のさまざまな人間模様を数多くのクラヴサンのための「組曲」で表現した。その作品には人物を特定できるものも少なくなく、とくに宮廷の女性を生き生きと描いている。その一つが「王妃マリ」で、この作品にはこの時代の国際戦争が色濃く反映されている。
マリはポーランド国王スタニスワフ・レシチニスキの娘マリーア・レシチニスカで、彼女はルイ15世の妃となった。スタニスワフはスウェーデンのカール12世の後押しを受けて国王に就任するが、1709年のポルタヴァの戦いでスウェーデンは敗北し、スタニスワフは亡命を余儀なくされる。ロシアとオーストリアはポーランド王にザクセンのフリードリヒ・アウグスト1世(ポーランド王としてはアウグスト2世)を即位させたが、彼が1733年に亡くなると、こんどはフランスが、ロシアやオーストリアが推すザクセンのフリードリヒ・アウグスト2世に対抗して、亡命中のスタニスワフを国王に擁立する。そこでポーランド継承戦争が起こる。この戦争でフランスとスタニスワフは敗北し、スタニスワフはフランスに亡命する。
マリがルイ15世の妃となったのは1725年、スタニスワフが亡命中のことである。ルイ15世はスペイン王女のマリーア・アンナ・ビクトリアと婚約をしていたが、これを破棄してマリと結婚する。このマリのクラヴサン教師をつとめたのがクープランである。クープランの第20組曲の第1曲を飾るのが「王妃マリ」で、「ポーランドの歌」がそれに続くのは、マリがポーランド人であったことによる。このポーランド継承戦争の時期にバッハはフランスの侵略軍に立ち向かうザクセン王を讃えたカンタータを作曲している。
西原稔
山形県生まれ。東京藝術大学大学院博士課程満期修了。現在、桐朋学園大学音楽学部教授。18、19世紀を主対象に音楽社会史や音楽思想史を専攻。「音楽家の社会史」、「シューマン 全ピアノ作品の研究 上・下」(ミュージック・ペン・クラブ賞受賞)、「クラシック 名曲を生んだ恋物語」、「クラシックでわかる世界史」などの著書などがある。