#26 ベートーヴェン生誕250周年シリーズ ベートーヴェンとウィーンのパトロンたち ♪「ピアノ三重奏曲」(作品1) - アクロス福岡
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歴史を彩った名曲たち

#26 ベートーヴェン生誕250周年シリーズ
ベートーヴェンとウィーンのパトロンたち
♪「ピアノ三重奏曲」(作品1)

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1791年、モーツァルトは借財を背負って亡くなった。その翌年、ベートーヴェンがボンからウィーンに移り住み、ハイドンに師事する。モーツァルトとベートーヴェンが対照的なのは音楽家に対する貴族社会の対応である。モーツァルトは1787年に宮廷室内楽作曲家に就任し、亡くなる1791年には無給とはいえ、シュテファン大聖堂の副楽長の地位に就いているのに対して、ベートーヴェンは、ウィーンに移り住んで以降は公的な地位に就いたことはなかった。しかし、貴族社会における二人の音楽家の立場や活動は大きく異なる。ベートーヴェンはウィーンに移り住んでほどなく、ピアノの即興演奏で名をはせ、瞬く間にウィーンの貴族社会の寵児となった。そして彼の数多くの作品を貴族に献呈し、献呈を受けた貴族は献呈料金を支払うことで、ベートーヴェンに報いた。それに対して、モーツァルトはウィーンの数多くの貴族が作品献呈料の支払いによって支援されるという環境にはなかった。
このことは、18世紀末にウィーンの貴族社会に変化が起こったことを物語っている。音楽家は宮廷の使用人から芸術家となったのである。そのもっとも大きな背景の一つにそのことから高まりを見せてきたロマン主義の思想が深く影響している。
若きベートーヴェンを最初に支援したのがリヒノフスキー侯爵である。音楽を深く愛好する侯爵はベートーヴェンが全く新しい感性をもった音楽家であることを見抜き、住居から音楽環境、さらには年金まで与えて彼を支援した。ハイドンやアルブレヒツベルガーらのもとで作曲の基礎を学んだベートーヴェンは3曲の「ピアノ三重奏曲」を作曲し、それに「作品1」という作品番号を与えた。とくにハ短調の第3番は激しい情感をはしらせる作品で、ベートーヴェンの個性をはっきりと示しているが、この作品に対してハイドンは出版を控えることを助言した。これを心外に思ったベートーヴェンは自身を支援し、この作品を理解した同侯爵に作品を献呈するのである。これはベートーヴェンとウィーンの貴族とのつながりの始まりであった。

ベートーヴェン
西原稔 山形県生まれ。東京藝術大学大学院博士課程満期修了。現在、桐朋学園大学音楽学部教授。18、19世紀を主対象に音楽社会史や音楽思想史を専攻。「音楽家の社会史」、「シューマン 全ピアノ作品の研究 上・下」(ミュージック・ペン・クラブ賞受賞)、「クラシック 名曲を生んだ恋物語」、「クラシックでわかる世界史」などの著書などがある。