#34 大陸封鎖 ♪ヴァイオリン協奏曲
1806年、ベートーヴェンは当時の有名なヴァイオリニスト、フランツ・クレメントの依頼を受けて新作の協奏曲を作曲した。作曲は同年の秋、短い期間で行われ、1806年、ウィーンのアン・デア・ウィーン劇場でクレメントの独奏で初演された。作品の初演後の1807年4月、ムツィオ・クレメンティ(1752-1832)が、ベートーヴェンのもとを訪れる。
クレメンティの父親はイタリア人、母親はスイス人でローマに生まれ、両親から音楽の基礎の手ほどきをうけたのち、さらに専門的にオルガンおよび作曲を学び、1766年か67年ごろにイギリスに渡る。クレメンティは、ピアノの初心者が学習用で多く演奏する「ソナチネ」で知られるが、交響曲などの大作を含めて数多くのピアノ・ソナタを作曲し、作曲家として非常に高名であった。彼は同時にロンドンで楽譜出版社やピアノ製造業者として活躍しており、文字通り実業家でもあった。
ベートーヴェンはウィーンを訪れたクレメンティにイギリスにおける作品出版を依頼し、ベートーヴェンは作品58、59、60、61、62、それに作品61のヴァイオリン協奏曲のピアノ編曲版の出版契約を結んでいる。しかし、ここで思いもよらない出来事が起こる。ナポレオンが、イギリスを経済的に孤立させることを目的として、彼が支配下に置いたヨーロッパ諸国に対してイギリスとの交易を禁止したのである。いわゆる大陸封鎖である。そのために、ベートーヴェンは前述の作品をロンドンに送ることができなくなり、この時期にロンドンでクレメンティのもとで刊行できたのはわずか2曲、作品61のヴァイオリン協奏曲とそのピアノ編曲のみであった。
しかし、この大陸封鎖が解除されると、クレメンティは積極的にベートーヴェンの作品出版に乗り出す。1810年、序曲「レオノーレ第3番」(作品72b)の初版を刊行し、同年、ライプツィヒのブライトコップフ・ウント・ヘルテル社とともに「ピアノ協奏曲第5番」(作品73)のイギリス初版を刊行し、同じ1810年に「6つの歌曲」(作品75)のイギリス初版が出版され、クレメンティはイギリスでのベートーヴェンの作品の普及に大きな貢献を果たすことになるのである。
クレメンティの父親はイタリア人、母親はスイス人でローマに生まれ、両親から音楽の基礎の手ほどきをうけたのち、さらに専門的にオルガンおよび作曲を学び、1766年か67年ごろにイギリスに渡る。クレメンティは、ピアノの初心者が学習用で多く演奏する「ソナチネ」で知られるが、交響曲などの大作を含めて数多くのピアノ・ソナタを作曲し、作曲家として非常に高名であった。彼は同時にロンドンで楽譜出版社やピアノ製造業者として活躍しており、文字通り実業家でもあった。
ベートーヴェンはウィーンを訪れたクレメンティにイギリスにおける作品出版を依頼し、ベートーヴェンは作品58、59、60、61、62、それに作品61のヴァイオリン協奏曲のピアノ編曲版の出版契約を結んでいる。しかし、ここで思いもよらない出来事が起こる。ナポレオンが、イギリスを経済的に孤立させることを目的として、彼が支配下に置いたヨーロッパ諸国に対してイギリスとの交易を禁止したのである。いわゆる大陸封鎖である。そのために、ベートーヴェンは前述の作品をロンドンに送ることができなくなり、この時期にロンドンでクレメンティのもとで刊行できたのはわずか2曲、作品61のヴァイオリン協奏曲とそのピアノ編曲のみであった。
しかし、この大陸封鎖が解除されると、クレメンティは積極的にベートーヴェンの作品出版に乗り出す。1810年、序曲「レオノーレ第3番」(作品72b)の初版を刊行し、同年、ライプツィヒのブライトコップフ・ウント・ヘルテル社とともに「ピアノ協奏曲第5番」(作品73)のイギリス初版を刊行し、同じ1810年に「6つの歌曲」(作品75)のイギリス初版が出版され、クレメンティはイギリスでのベートーヴェンの作品の普及に大きな貢献を果たすことになるのである。
西原稔
山形県生まれ。東京藝術大学大学院博士課程満期修了。現在、桐朋学園大学名誉教授。18、19世紀を主対象に音楽社会史や音楽思想史を専攻。「音楽家の社会史」、「シューマン 全ピアノ作品の研究上・下」(ミュージック・ペン・クラブ賞受賞)、「クラシック 名曲を生んだ恋物語」、「クラシックでわかる世界史」などの著書などがある。