#37 ウィーンの貴族社会 ♪歌曲集「遥かなる恋人に寄せる」 - アクロス福岡
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歴史を彩った名曲たち

#37 ウィーンの貴族社会 ♪歌曲集「遥かなる恋人に寄せる」

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ベートーヴェンの作品の中でひときわ際立っているのが歌曲集「遥かなる恋人に寄せる」作品98である。1816年にアロイス・ヤイテレス(1794ー1858)の詩に作曲された6曲からなる連作歌曲集で、それまでの歌曲とは明らかに異なり、非常に自由な愛を歌っている。同時にこの歌曲集の表現は、ウィーンの社会の空気が変化したことをよく示している。1814ー15年に開催されたウィーン会議によってフランス革命が否定され旧体制と旧秩序が復権するとともに、「ビーダーマイヤー文化」とよばれる市民文化が始まったその時期にこの歌曲集が作曲された。
ナポレオン戦争はウィーンの貴族社会を根底から変質させた。この戦争が起こると、戦費調達のためにオーストリア・ハプスブルク家は周辺貴族から傭兵を買うなど支援を求めたが、その結果ボヘミアやハンガリーなどの周辺貴族は富裕になり、これらの貴族はパトロンとしてベートーヴェンなど芸術家を支援した。しかし1811年、紙幣乱発が災いして通貨の大暴落を招き、多くの貴族が一斉に没落する。ヴァルトシュタイン伯爵などもその一人である。その一方で、市民的な文化が次第に開花し、ウィーンは新しい時代に入るのである。
「遥かなる恋人に寄せる」の詩の作者ヤイテレスは医師であるが、詩人でもあり初期ロマン派の詩人とも交流をもっていた。この歌曲で特に重要なのは最後の第6曲である。「さあ、受け取ってください、この歌を、愛するあなたに歌った歌を。夕方、もう一度歌ってください、リュートの甘い響きに合わせて」で始まる歌詞は柔和で抒情的であり、そして歌曲の旋律はあたかもシューベルトの歌曲を思わせる自然さに満ちている。この第6曲の旋律を、ベートーヴェンは「ピアノ・ソナタ第30番」作品109の第3楽章の主題に用いるほか、シューマンは「幻想曲」作品17の第1楽章に取り入れ、ブラームスも「ピアノ三重奏曲第1番」作品8の初稿版の第4楽章に取り入れており、この歌曲の影響力は大きかった。この歌曲集は、ウィーンの貴族社会の変容と新しい市民社会の台頭を象徴している。

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西原稔 山形県生まれ。東京藝術大学大学院博士課程満期修了。現在、桐朋学園大学名誉教授。18、19世紀を主対象に音楽社会史や音楽思想史を専攻。「音楽家の社会史」、「シューマン 全ピアノ作品の研究上・下」(ミュージック・ペン・クラブ賞受賞)、「クラシック 名曲を生んだ恋物語」、「クラシックでわかる世界史」などの著書などがある。