#38 ビーダーマイヤー文化のウィーン ♪ディアベッリ変奏曲
オーストリアの作曲家で、楽譜出版業を営んでいたアントン・ディアベリ(1781~1858)は、1818年、自ら作曲したワルツの旋律を主題にして、オーストリアに活動拠点を置く作曲家に短い変奏曲を作曲させ、ピアノ変奏曲集を出版することを企画し、ウィーンで活動する作曲家50人に作曲を委嘱した。その中には、ツェルニーやシューベルト、フンメル、カルクブレンナーらに加えて、チェルニーに師事していた当時8歳のリストもいた。その委嘱はもちろんのことベートーヴェンにもなされた。
1815年にフランス革命およびナポレオン戦争を総括するという意図を持ったウィーン会議が終わり、ヨーロッパは「ウィーン体制」という新しい時代に入った。「ワルツは踊る」という言葉に象徴されるように、ウィーンでは舞曲が大きな人気を博し、新しい市民社会が興隆しつつあった。この時代の音楽の主役はピアノで、ディアベッリの企画はこのピアノ愛好者を対象としていた。
ベートーヴェンがこの依頼を受けたのは1819年ごろで、彼はこの年に作曲に着手したものの、他の作品の創作のためにいったん中断し、最終的に完成を見たのは1823年である。ディアベッリからの依頼はワルツの主題と変奏曲1~3曲というものであったが、ベートーヴェンは33もの変奏曲を作曲し、完成まで足掛け4年を費やした。この大作は、ディアベッリの想定をはるかに超える壮大な規模の作品として完成された。
この作品は、ウィーンの音楽家50名による変奏曲集とベートーヴェンの33の変奏曲集の2巻で刊行された。ここで興味深いのはベートーヴェンの傑作もさることながら、この時代のウィーンのさまざまな音楽家がここに総結集されている点である。これらの作曲家の作品を見るとこの時代のウィーンのピアノ文化の断面図を見る思いがする。
「ディアベッリ変奏曲」はベートーヴェンの創作の最後に位置する。このころまでに彼はすべてのピアノ・ソナタの創作を終えており、この作品では明らかにその作風を変えている。その変化はそのころのウィーンの空気も反映しているのであろうか。
1815年にフランス革命およびナポレオン戦争を総括するという意図を持ったウィーン会議が終わり、ヨーロッパは「ウィーン体制」という新しい時代に入った。「ワルツは踊る」という言葉に象徴されるように、ウィーンでは舞曲が大きな人気を博し、新しい市民社会が興隆しつつあった。この時代の音楽の主役はピアノで、ディアベッリの企画はこのピアノ愛好者を対象としていた。
ベートーヴェンがこの依頼を受けたのは1819年ごろで、彼はこの年に作曲に着手したものの、他の作品の創作のためにいったん中断し、最終的に完成を見たのは1823年である。ディアベッリからの依頼はワルツの主題と変奏曲1~3曲というものであったが、ベートーヴェンは33もの変奏曲を作曲し、完成まで足掛け4年を費やした。この大作は、ディアベッリの想定をはるかに超える壮大な規模の作品として完成された。
この作品は、ウィーンの音楽家50名による変奏曲集とベートーヴェンの33の変奏曲集の2巻で刊行された。ここで興味深いのはベートーヴェンの傑作もさることながら、この時代のウィーンのさまざまな音楽家がここに総結集されている点である。これらの作曲家の作品を見るとこの時代のウィーンのピアノ文化の断面図を見る思いがする。
「ディアベッリ変奏曲」はベートーヴェンの創作の最後に位置する。このころまでに彼はすべてのピアノ・ソナタの創作を終えており、この作品では明らかにその作風を変えている。その変化はそのころのウィーンの空気も反映しているのであろうか。
西原稔
山形県生まれ。東京藝術大学大学院博士課程満期修了。現在、桐朋学園大学名誉教授。18、19世紀を主対象に音楽社会史や音楽思想史を専攻。「音楽家の社会史」、「シューマン 全ピアノ作品の研究上・下」(ミュージック・ペン・クラブ賞受賞)、「クラシック 名曲を生んだ恋物語」、「クラシックでわかる世界史」などの著書などがある。