稲光弥平(篤農家)
福岡市内を流れる那珂川には、河口から百年橋までの間に、現在15もの橋が架けられている。昭和通りにかかる西中島橋や国体道路にかかる春吉橋など、現代のわれわれの生活にも欠かせないこれらの橋のなかの一つ、住吉神社のある住吉と春吉をつなぐ「住吉橋」を私費で寄進したのが、稲光弥平だ。
江戸時代より、住吉神社の大鳥居に通じる住吉橋は人々の暮らしに大変重要な橋であった。両岸の住民たちは橋を行き来して商売や農業を行っており、経済の要地でもあったのだ。しかし現在よりも水量の多かった那珂川はしばしば洪水を起こし、そのたびに住吉橋は流されていた。藩の財政が厳しいため、橋はすぐには架け替えられず、住民たちはそのたびに大変な思いをしたようだ。そこで立ち上がったのが、春吉の豪商・稲光弥平だった。
大地主であった弥平は、住民たちの苦悩を目の当たりにし、「川の真ん中に人工島を作って流水を二分すれば水流が弱くなるだろう」と当時としては画期的なアイデアを打ち出した。「橋脚もしっかりし、洪水でも流れない橋ができるに違いない」そう考え、全て私費で人工島づくりに着手したのだ。幾度もの失敗を乗り越え、1855年、弥平53歳のときについに住吉と春吉の両岸から人工島へ橋を架けた「住吉橋」が完成する。これ以降、橋が流されることはなくなり、弥平は功績を藩より称えられ苗字帯刀を許されたという。
この話には後日談が。昭和5年、新たに鉄筋コンクリートの住吉橋に架け替えられる際、人工島の地中に埋められている碑文が発見された。これは当時、弥平が遺した記念碑なのだが、自分の功績を表に出すことなく埋めたのだと考えられている。
私欲なき、真のボランティア精神を持っていた稲光弥平。現在の住吉橋のたもとに、この記念碑が設置されている。
江戸時代より、住吉神社の大鳥居に通じる住吉橋は人々の暮らしに大変重要な橋であった。両岸の住民たちは橋を行き来して商売や農業を行っており、経済の要地でもあったのだ。しかし現在よりも水量の多かった那珂川はしばしば洪水を起こし、そのたびに住吉橋は流されていた。藩の財政が厳しいため、橋はすぐには架け替えられず、住民たちはそのたびに大変な思いをしたようだ。そこで立ち上がったのが、春吉の豪商・稲光弥平だった。
大地主であった弥平は、住民たちの苦悩を目の当たりにし、「川の真ん中に人工島を作って流水を二分すれば水流が弱くなるだろう」と当時としては画期的なアイデアを打ち出した。「橋脚もしっかりし、洪水でも流れない橋ができるに違いない」そう考え、全て私費で人工島づくりに着手したのだ。幾度もの失敗を乗り越え、1855年、弥平53歳のときについに住吉と春吉の両岸から人工島へ橋を架けた「住吉橋」が完成する。これ以降、橋が流されることはなくなり、弥平は功績を藩より称えられ苗字帯刀を許されたという。
この話には後日談が。昭和5年、新たに鉄筋コンクリートの住吉橋に架け替えられる際、人工島の地中に埋められている碑文が発見された。これは当時、弥平が遺した記念碑なのだが、自分の功績を表に出すことなく埋めたのだと考えられている。
私欲なき、真のボランティア精神を持っていた稲光弥平。現在の住吉橋のたもとに、この記念碑が設置されている。
(文・上田瑞穂)
▲篤農家・稲光弥平
(1803-1873)の記念碑
▲現在の住吉橋
▲当時を想像して描いたスケッチ
(画:稲光勇雄氏)
▲昭和通りから住吉通りの間だけでも7つの橋が架けられている那珂川。
赤丸部分に碑が遺されている