岩松助左衛門(庄屋)
北九州市若松区から北の沖合約5キロの岩礁に、白黒に塗り分けられた小さな灯台が立っている。関門海峡からも近いこの響灘の海域は暗礁や浅瀬が多く、江戸時代から “西国一の海の難所”と船乗りたちから恐れられてきたエリア。ここに私財を投じて、灯台の建設に尽力したのが岩松助左衛門だ。晩年の生涯を、この小さな灯台建設にささげた。
助左衛門は豊前国企救郡長浜浦、現在の北九州市小倉北区長浜町で生まれた。18歳から40年近く庄屋として務めあげた功績が認められ、1861年、57歳のときに小倉藩より「海上御用掛難破船支配役」を命じられる。海の安全を守る役職だ。庄屋をしていた頃から難破船を多く見てきた助左衛門は、藍島の西南1キロのところにある大暗礁、白洲で頻発する事故に日ごろから心を痛めていた。そんなある日、大きな海難事故が起こる。この大暗礁に座礁した難破船の一報を受けた助左衛門は荒天の中救助に向かうが、たどり着いた先で目にしたのは木っ端みじんに砕け散った船の姿だった。「これ以上、この場所で被害者を増やしたくない」。目の前に広がる光景が助左衛門の心に火をつける。白洲に常用灯の灯台を建て、航海者の安全を守ることを決意したのだ。
1862年、藩に灯台の建設許可願を出し受理されたものの、莫大な建設費用が藩から下りることはなかった。助左衛門はこの事業に岩松家の全財産を投じたが、それでも足りず、不足資金の調達に東奔西走して回った。加えて難破船救助なども請け負っていた漁業・廻船業関係者からの反対にも遭う。道のりは、決して容易なものではなかった。それでも幾多の困難を乗り越え、ついに1870年、基礎工事が始まる。翌1871年には公共事業としての役割が認められ、事業は明治政府に引き継がれた。
1872年、身命を賭して取り組んだ灯台の完成を待たず、助左衛門は68年の人生を閉じた。助左衛門の死去から1年後の1873年、白洲灯台は完成し、今日まで海の安全を守り続けている。海難事故を減らしたい、その一念を全うした、無私無欲の人であった。
助左衛門は豊前国企救郡長浜浦、現在の北九州市小倉北区長浜町で生まれた。18歳から40年近く庄屋として務めあげた功績が認められ、1861年、57歳のときに小倉藩より「海上御用掛難破船支配役」を命じられる。海の安全を守る役職だ。庄屋をしていた頃から難破船を多く見てきた助左衛門は、藍島の西南1キロのところにある大暗礁、白洲で頻発する事故に日ごろから心を痛めていた。そんなある日、大きな海難事故が起こる。この大暗礁に座礁した難破船の一報を受けた助左衛門は荒天の中救助に向かうが、たどり着いた先で目にしたのは木っ端みじんに砕け散った船の姿だった。「これ以上、この場所で被害者を増やしたくない」。目の前に広がる光景が助左衛門の心に火をつける。白洲に常用灯の灯台を建て、航海者の安全を守ることを決意したのだ。
1862年、藩に灯台の建設許可願を出し受理されたものの、莫大な建設費用が藩から下りることはなかった。助左衛門はこの事業に岩松家の全財産を投じたが、それでも足りず、不足資金の調達に東奔西走して回った。加えて難破船救助なども請け負っていた漁業・廻船業関係者からの反対にも遭う。道のりは、決して容易なものではなかった。それでも幾多の困難を乗り越え、ついに1870年、基礎工事が始まる。翌1871年には公共事業としての役割が認められ、事業は明治政府に引き継がれた。
1872年、身命を賭して取り組んだ灯台の完成を待たず、助左衛門は68年の人生を閉じた。助左衛門の死去から1年後の1873年、白洲灯台は完成し、今日まで海の安全を守り続けている。海難事故を減らしたい、その一念を全うした、無私無欲の人であった。
(文・上田瑞穂)
▲小倉城に復元された助左衛門が計画した灯台
▲響灘に点在する小倉藩領海の島々
▲助左衛門が資金調達のために作成した引札(チラシ)
「豊前企救郡藍嶋沖白洲燈籠堂図」
北九州市立自然史・歴史博物館所蔵・提供(冨田吉子撮影)
▲現在は白洲灯台には立ち入りが制限されており、一年に一回の有志による清掃活動の日だけ上陸が許されている。海上で船の帆と見分けしやすいように、1876年に黒と白に塗り分けられたという。現在の灯台は1900年に造られた2代目のもの。
問い合わせ先
岩松助左衛門顕彰会事務局
Tel:093ー531ー5094