田中久重(発明家) - 福岡クリエーター 人物列伝 - アクロス福岡
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福岡クリエーター 人物列伝

田中久重(発明家)

「からくり儀右衛門(ぎえもん)」と呼ばれ、のちに東芝創業者となる田中久重は、久留米市のべっこう細工を家業とする家に生まれた。幼少期から手先が器用で、特殊な鍵を付けた「開かずの硯箱」を作り寺子屋で友人を驚かせたり、久留米絣の祖として有名な井上伝に依頼されて織機を考案したりとその発想は豊かであった。久留米市通外町にある五穀神社の祭礼では、当時人気を博していたからくり人形を次々と披露し、人々から大絶賛を受ける。家業のべっこう細工ではなく、からくり人形師に面白さを感じ始めた久重は、20代になると自身のからくりを手に全国を行脚するようになった。そして江戸や京都、大阪で彼の興行は大評判となり、36歳のとき関西に居を置く。

関西での彼はその呼び名を「からくり師」から「時計師」に変える。商人たちが夜、帳簿をつけるときにいつまでも灯りが消えないようにと発明した「無尽灯」や、夜間医療の現場でも重宝された「携帯用懐中燭台」など、実用品の製作をするなかで出会ったのが、舶来品の西洋時計。これに興味を惹かれた久重は、49歳にして天文、数理を学び、天文暦学を驚異のスピードで習得する。そして、日本の時計技術の最高峰と言われる「万年時計(万年自鳴鐘)」を生み出した。これは、西洋時計と和時計に加えて、曜日や二十四節気、旧暦の日付など、「時」に関する全てを凝縮した時計。直径12センチほどの大きな2組4枚のぜんまいで動き、一度巻くと一年稼働し、太陽と月をはじめとする天体現象の全てが表されるという、最高傑作であった。その後、目覚まし機能を持つ「枕時計」やニワトリが時を報じる「太鼓時計」など、機能とユーモアを兼ね備えたさまざまな時計を生み出し、「時計師久重」の名を世に知らしめる。また、京都で西洋科学技術を学び、佐賀に招かれ蒸気機関や電信機の製造など大型プロジェクトを次々と成功させた。

幕末から明治維新までを佐賀と久留米で過ごした久重は、上海に渡り洋式船の購入をするなど近代産業の礎となる技術も身に付け、75歳にして東京へ移り住んだ。ベルが発表したばかりの電話をすぐさま模倣し完成させるなど、老いを感じさせることのない発想力とバイタリティーであったという。没後、彼の意志を受け継いだ2代目久重が芝浦に工場を建てる。これがのちの、東芝である。

(文・上田瑞穂)

発明家・田中久重(1799-1881)
▲発明家・田中久重
(1799-1881)
万年時計レプリカ
▲万年時計レプリカ
「太鼓時計」をモチーフにしたからくり時計
▲JR久留米駅前には、久重が制作した「太鼓時計」をモチーフにしたからくり時計が設置されている。定時になると時計盤が回転し、儀右衛門人形が登場する
問い合わせ先
久留米市役所 市民文化部
文化財保護課
Tel:0942-30-9225