伊藤 隆(嘉穂劇場 創設者) - 福岡クリエーター 人物列伝 - アクロス福岡
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福岡クリエーター 人物列伝

伊藤 隆(嘉穂劇場 創設者)

木造二階建、入母屋(いりもや)造りの嘉穂(かほ)劇場は建物自体が国の有形文化財に指定されている。しかし文化財として価値があるのはその背景にある歴史であって、建築様式ではないと、現理事長の伊藤英昭(ひであき)さんは語る。「細工や装飾など、目を見張る建築美がこの建物にあるわけではないんですよ。それよりも、嘉穂劇場は炭坑景気に沸いた飯塚の繁栄を象徴しているのが特徴。幾多の困難を乗り越えて、何度も復活した劇場なんです」。

明治から昭和にかけて、遠賀川流域には50もの芝居小屋があった。映画はまだ無声のみという時代、人々の唯一の楽しみが芝居であったといっても過言ではない。なかでも炭坑町として栄えていた飯塚では、麻生太七(たしち)が中心となって「東京や大阪に負けない、筑豊の名に恥じない劇場を作ろう」という声が上がっていた。日本の産業の中心地であるこの町に、文化面でも全国に誇れるものを、という思いだったのだろう。大正11年、大歌舞伎を呼べる3階建ての劇場が完成した。そびえ立つ姿に、人々は驚いたという。

しかしそれからわずか6年後の昭和3年に火事により全焼。翌年、驚異的な早さで再建し新築落成するが、またその翌年の昭和5年に台風により倒壊してしまう。さすがに2度目の再建という話にはならず、麻生太七を代表者としていた株式会社中座は解散し、嘉穂劇場はここで終焉を迎えるかと思われていた。

その時、支配人として運営に携わっていた伊藤隆が、個人で劇場の再建をすることを決意した。炭坑で汗を流す男たちの唯一の娯楽場であるこの劇場を、なくしてはいけない。その一心で自身の田畑を売り、妻の実家の土地なども抵当に入れ、懸命に再建に尽くした。町の人々からの強い思いや支援もあり、なんと倒壊からわずか半年後の昭和6年2月に再建を果たす。個人の財力には限界があり、倒壊前の3階建てから2階建てとなったが、それでも1200名を収容する素晴らしい劇場が再び飯塚の町によみがえった。

隆は亡くなる直前まで借金を返し続け、懸命にこの町の娯楽を支え続けた。娘の英子に引き継ぐときには「生活が苦しければ劇場を閉めても構わない」という言葉まで遺したという。しかしその父の姿を間近で見ながら、ともに劇場運営に携わっていた英子もまた、父親の形見ともいえる劇場を愛し、大切に守り続けた。

「町の誇りと言っていただけるとうれしいですが、私たち家族のタスキをつないできた劇場でもあるんです。祖父の思いを、次世代へと引き継いでいきたいですね」隆の孫にあたる英昭さんは、そう締めくくった。

(文・上田瑞穂)

嘉穂劇場 創設者・伊藤 隆<br>(1876-1946)
▲嘉穂劇場 創設者・伊藤 隆
(1876-1946)
大正10年、最初の3階建ての<br>嘉穂劇場の上棟の様子
▲大正10年、最初の3階建ての嘉穂劇場の上棟の様子
昭和6年、隆が再建した2階建ての劇場の開場式
▲昭和6年、隆が再建した2階建ての劇場の開場式
嘉穂劇場
▲嘉穂劇場
飯塚市飯塚5ー23
Tel:0948ー22ー0266