田中 諭吉(プランナー)
節分の季節になると博多の総鎮守、櫛田神社には日本一のお多福面が登場する。お多福の口をくぐって参拝すると福が訪れるというこの「福くぐり」の発案者が、伝説のプランナー・田中諭吉だ。新聞社や広告代理店勤務時代に実にさまざまな博多の祭事を企画し、その中には今なおこの町に生き続けているものも多い。例えば、700余年の歴史を誇る博多祇園山笠。それまで、博多地区を出たことがなかった山笠を福岡エリアにお披露目するという「集団山見せ」を企画し、成功させたのも田中だ。それと同時に櫛田神社での常設飾り山笠も実現させた。神事ではあるものの、観光客にも楽しんでもらおうと昭和37年に田中の発案により始まり、実際それ以降、山笠を見るために博多を訪れる観光客は激増したと言われている。宗像大社を交通安全の守り神にしたのも、太宰府天満宮の「曲水の宴」を始めたのも、田中。その驚くべき発想力の源を、三男の卓史さんと四男の崇和さんにお聞きした。
「文字や絵がうまかったので、最初は新聞社の絵画部に勤めていました。同僚には長谷川町子さんもいたと聞いています。新聞用の絵画を描く傍ら、企画にももちろん参加するのですが、戦後闇市が横行し、瓦礫(がれき)の山であった現在の天神駅周辺に商店街を作ることを発案しました。英語が話せた長男を連れてGHQに直接乗り込んで、『ブルドーザーを貸してくれ』って直談判したそうですよ(笑)。この時できあがったのが、新天町です」と三男の卓史さん。
「広告代理店勤務時代に、春の太宰府に何か観光イベントをと企画したのが平安時代の宮中行事を再現した“曲水の宴”。当時私は高校生だったのですが、『何か文献とか残っとると?』と聞くと『当時のことを覚えとる人は誰もおらんから大丈夫たい』って(笑)。細かいことは気にせず、とにかく町が元気になること、人が笑顔になることが大好きな人でした。何かイベントが終わると、『今日は大成功だった!』と大喜びで帰宅してくる父をよく覚えています。明るい父で、家でもよく博多にわかを披露してましたよ」と崇和さんが話すと、「博多仁和加振興会も作ったもんね」と卓史さん。西公園にある光雲(てるも)神社のお賽銭を入れると鶴が鳴くあの名物も、糸島の二見ヶ浦の夫婦岩も、みんな田中が企画したもの。この町の代表的イベントと観光名所を次々と作り上げていった。
「若いころから頭髪が薄かったので自らを『光頭無毛文化財(こうとうむけいぶんかざい)』と称していました(笑)。人を喜ばせることが無二の幸せという人でしたね」
「文字や絵がうまかったので、最初は新聞社の絵画部に勤めていました。同僚には長谷川町子さんもいたと聞いています。新聞用の絵画を描く傍ら、企画にももちろん参加するのですが、戦後闇市が横行し、瓦礫(がれき)の山であった現在の天神駅周辺に商店街を作ることを発案しました。英語が話せた長男を連れてGHQに直接乗り込んで、『ブルドーザーを貸してくれ』って直談判したそうですよ(笑)。この時できあがったのが、新天町です」と三男の卓史さん。
「広告代理店勤務時代に、春の太宰府に何か観光イベントをと企画したのが平安時代の宮中行事を再現した“曲水の宴”。当時私は高校生だったのですが、『何か文献とか残っとると?』と聞くと『当時のことを覚えとる人は誰もおらんから大丈夫たい』って(笑)。細かいことは気にせず、とにかく町が元気になること、人が笑顔になることが大好きな人でした。何かイベントが終わると、『今日は大成功だった!』と大喜びで帰宅してくる父をよく覚えています。明るい父で、家でもよく博多にわかを披露してましたよ」と崇和さんが話すと、「博多仁和加振興会も作ったもんね」と卓史さん。西公園にある光雲(てるも)神社のお賽銭を入れると鶴が鳴くあの名物も、糸島の二見ヶ浦の夫婦岩も、みんな田中が企画したもの。この町の代表的イベントと観光名所を次々と作り上げていった。
「若いころから頭髪が薄かったので自らを『光頭無毛文化財(こうとうむけいぶんかざい)』と称していました(笑)。人を喜ばせることが無二の幸せという人でしたね」
(文・上田瑞穂)
▲プランナー 田中 諭吉
(1901-1970)
▲櫛田神社の節分厄除大祭で登場する日本一の大きさのお多福面。
博多っ子にはすっかりおなじみだ
黒田如水と長政を祀る光雲(てるも)神社。
賽銭を入れると鶴の鳴き声が響く仕掛けが施されている。
「うれしくなってついもう一回賽銭をいれてしまうでしょう」と笑う田中の顔が見えてきそうだ