渡辺 與八郎(博多商人) - 福岡クリエーター 人物列伝 - アクロス福岡
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福岡クリエーター 人物列伝

渡辺 與八郎(博多商人)

九州を代表する大繁華街、天神のメインストリートといえば「渡辺通」。明治通、昭和通、大博通、日赤通…と福岡市内には数々の「通り」があるが、そのなかでも唯一、人名が付けられているこの通りの由来となったのが、渡辺與八郎だ。天神はもちろん、博多や福岡の発展に多大に貢献し、今なお私たちはさまざまな場面でその恩恵に預かっている。

1866(慶応2)年、紙與呉服店の3代目として生まれた與八郎は、福岡市が誕生した1889(明治22)年に家督を継ぎ、紙与本家の当主となる。九州一と言われた呉服屋を継いだ與八郎だが、本業以外にもこの町の発展のためにさまざまな分野で活躍した。

明治36年、九州大学が誘致される際には、優位に立っていた熊本や長崎に対抗するために私財を寄付して福岡への誘致運動を支援。「大学設置は市の発展上緊急欠くべからざるものであって、之に要する資金の提供は躊躇(ちゅうちょ)すべきではない」と、当時住宅二戸が建つと言われた五千円を即座に出したという。その後帝国大学へ昇格する際には、風紀上好ましくないとされた近隣の遊郭を、自分が保有していた住吉の土地を提供して移転させる。売名的野心など無かった與八郎は、こういった義挙を吹聴することは微塵(みじん)もなかった。

そして最大の功績は、博多電気軌道(のちの西鉄循環線)の設立だ。天神から現渡辺通、住吉を通って博多駅、さらに築港から天神へ…という循環路面電車を実現させた。これには沿線の土地取得に加えて、石堂川や那珂川などに4つの橋を架ける必要があり、その費用と労力は膨大なものと試算された。しかし、「町の繁栄と発展のために、道と橋をつくることは自分の使命」と信じた與八郎は私財を投じ、銀行からお金を借りてまでこの事業に尽くした。心配した友人に「町の発展のためなら、財産や命まで投げ出してもいい」とまで語ったと言われている。

1911(明治44)年、博多電気鉄道の部分開業を前に、停留所の位置と名称の選定の際「天神町から新柳町間は労苦と犠牲を記念する意味において渡辺通、または渡辺町としたい」という旨の建議が重役たちからあがるも、與八郎はこれを固辞。表に出ることを好まず、名誉欲を微塵(みじん)も持たなかった與八郎らしいエピソードだ。そして開業直後に病に襲われ、わずか46年という生涯を閉じてしまう。

その後の天神の発展については皆さんご存知の通り。道を造ることが町の発展につながる、彼のその思いは証明された。無欲恬淡(むよくてんたん)、温良恭倹(おんりょうきょうけん)と称されたその人柄をたたえ、後の人により天神を南北に貫くこの通りは「渡辺通」と名付けられた。その北の起点となる交差点には、今も「紙与渡辺ビル」がある。

(文・上田瑞穂)
(参考文献:「渡辺與八郎傳」紙与産業株式会社)
博多商人 渡辺 與八郎(1866-1911)
▲博多商人 渡辺 與八郎
(1866-1911)
現在の渡辺通
現在の渡辺通
▲現在の渡辺通
九州一の大通り、「渡辺通り
▲九州一の大通り、「渡辺通り」