第2回 八女福島仏壇 — 55年、一筋の道 - 匠にであう - アクロス福岡
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第2回 八女福島仏壇 — 55年、一筋の道

漆塗りの刷毛
▲漆塗りの刷毛
先祖を敬う日本人の宗教観において仏壇は住居の中心に位置づけられてきた、と言っても過言ではなかろう。荘厳華麗な京仏壇の流れを受け継ぐ八女福島仏壇は、江戸末期からの伝統をもつ。仏壇造り一筋、55年の中島正之さんを訪ねた。

中島さんは八女福島仏壇伝統工芸士会会長を務める。八女市亀甲の工房の作業台の上に黄金色に輝く1体の布袋様があった。「最近は仏壇より、木像などに金箔をほどこす二次製品が楽しい」と、照れる。
中学校を卒業した昭和27(1952)年、中島さんは父親の友人、井ノ口敬男さんの店に預けられた。
井ノ口仏壇店は、30人の弟子職人を含む家族とも70人を抱え、町一番の仏壇製造販売を誇っていた。仏壇も米と交換していた食糧難の頃で、店の前には、売れ行きを誇示するかのように、幟を立てて米俵が積み上げられていたという。

江戸の文政4(1821)年に始まったとされる福島の仏壇造り。この特徴は荘厳華麗な造りの他に、古くなっても、漆を塗り替え新品に『洗濯』するために解体できる点にある。製造工程は木地、宮殿、金具、彫刻、蒔絵、仕上の6部門に分かれる。中島さんは下地や漆塗り、金箔を担う仕上部門だった。師匠に朝4時に起こされ、職人がすぐに仕事にかかれるように下準備。それが終わると水汲み、店の掃除、と雑用で一日が過ぎた。

「師匠は九州一の彫刻師。『いい職人の仕事を見て覚えろ。一生が研究たい』が口癖だった。仕事は教えてもらえなかったが、見込んだ職人は京都からでも引き抜いてきて、私らに見せていました。先輩に恵まれ人より早く一人前にしてもらいました」

つらい修行時代の忘れがたい思い出は、近代絵画史に輝く、坂本繁二郎画伯に花鳥風月や山水画の教示を受けたこと。仏壇の扉絵に使ったそのときの絵を何枚も取り出してきた。また、昭和33(1958)年春の関門トンネル開通記念展に出した仏壇が最高賞を射止めたこと。「私が漆塗りをさせてもらった。師匠も自慢するほどの出来で2年ほど店頭に飾っていました」

中島さんに漆塗りの刷毛を見せて頂いた。湿度に敏感な漆は、鏡面のように塗るのが至難の業で、筆には若い女性の毛髪を使う。幅の広いの、狭いの、使い込んで短くなったの、長いのと50本はあったろう。ホコリが大敵で冬でも裸になって、締め切った部屋にこもって塗る。紙より薄い金箔も、同じように真夏でも締め切った部屋で息を殺しての作業とか。

昭和40(1965)年に独立してからは、複数の位牌を扉に収納する仏壇で実用新案特許をとったり、はげない金箔の技術を確立したり、中島さんの功績は枚挙に暇がない。現在の心境を中島さんは、「仏壇造りに定年はありませんが、これからは地域の人々を対象に木彫りを教え、創る喜びを知ってもらいたい」と話す。
(文・安藤憲孝)

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    中島仏壇製造所
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    伝統工芸士 中島正之 金箔工芸品展
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    2007年4月10日(火)〜2007年4月15日(日)
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  • 絵・文  あんどう・のりたか
    年甲斐もなく好奇心が強い。無論、全てにそうではないが、特にモノ作りの現場でいつの間にか身を乗り出している。創造の世界が新鮮に映る。衰えそうもない好奇心に当分、付き合っていくか…
中島 正之さん(70歳)
▲中島 正之さん(70歳)
「心」の盾
「忍」の盾
▲「心」「忍」の盾
仏壇発明賞を射止めた仏壇
▲仏壇発明賞を射止めた仏壇