旧吉原家住宅 ―大川市―
吉原家住宅主屋は、江戸期1825年に棟梁曽我又左衛門が建築し、規模と造作の見事さで九州でも重要な民家の一つとされている。吉原家は平安後期1145年ごろこの地に住み始めたと記録にあり、柳川藩は吉原氏を別当*1とし町の管理運営にあたらせた。伊能忠敬も測量日記に1812年10月に2度にわたり止宿したと記している。
中庭をはさみ2列の棟があり南棟が公的な武家書院*2風で、北棟はプライベートな造りとなっている。2棟の蔵、2カ所の門、塀、お庭なども残り、殿様が宿泊されてもおかしくない立派な造りだ。玄関の式台*3上部の差鴨居は高さが90cmを超えるみごとな杢目の樟で天井板とともに(写真▲1)目をみはるものがある。玄関左に三の間、次の間、上の間(写真▲2)が続き、入側*4まで含めると47畳の広さになる。床の間のある座敷は凝ったデザインの床脇、飾窓、さまざまな欄間(写真▲3)で装飾され小さな御殿のようだ。玄関右に男部屋とよばれる奉公人部屋があり、その裏の土間は幅5m奥行き13mで高さが92cmもの松梁が何本も使われている。
この地区は古い紙屋(▲写真4)、酢屋(▲写真5)の商家や寺社が点在し、柳川藩と久留米藩の藩堺石(▲写真6)が残るなど江戸後期から明治にかけての小保・榎津の町並みを偲ぶことができる。「藩境のまちづくりを考える会」が保存運動を行いさまざまなイベントを催しているので参加してみるのも一興かと思う。
*1 別当・・・農村では庄屋にあたる身分で町方のまとめ役をいう。
*2 武家書院・・・床の間がある武家の住宅様式。茶室などの数寄屋に対する言葉。
*3 式台・・・土間と玄関の段差が高い時に登り口部分に敷く板。
*4 入側・・・濡れ縁と座敷の間に造った2mほどの通路や畳を敷きつめた縁側。
写真・文|大森久司
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場所・お問い合わせ
大川市大字小保(こぼ)136-17アクセス
TEL:0944-86-8333西鉄柳川駅より西鉄バス「中原高木病院前」下車、徒歩10分備考休み:月曜日(祝日の場合は翌日)、
年末年始
営業時間:午前9時~午後5時
(入館は午後4時30分まで)
▲1 差鴨居
▲2 三の間、次の間、上の間
▲3 欄間
▲4 紙屋
▲5 酢屋
▲6 藩堺石